不登校ひきこもりという言葉自体に、社会的規範が見え隠れする

先日の安保先生の講演をお聞きして思ったことの続きです。

”不登校ひきこもりという言葉自体に、社会的規範が見え隠れする。
その社会的規範で思わされやすいこと” として

”学校に行くべきなのに行っていない
社会に貢献すべきなのにしていない”
という、ふたつの「~べき」をあげられていて、

更に、”社会的規範と思わされているのは実は、
多数派やその(発言の)機会を持つ者の意見に過ぎない” 
と述べられていました。

このお話を聞いていた私たちは、
無意識に、安保先生からの問いかけを受けていたような気がします。

気づかないうちに、そう思わされていませんか?
それは、自分で選択したことですか?
その選択で大丈夫ですか?
本当は、どんな風に思うことを選択したいのでしょう?

 

この後、私の胸に響いたのは、次の言葉でした。

”本来 人は、自分の人生を楽しむ権利がある”

私の大切にしている言葉では、
エクセレントライフ、最高最大の人生を生きること、だと思いました。

人は幸せな人生を生きるために生まれてきた。

だから、それが出来ていないとき、辛さや苦しさを感じるのは、自然なこと。


伝えたいことも、伝え方も、人それぞれ色々ある。
私の言葉で人に伝えられるように、もっと学んでいこう、そう思いました。

そして、不登校、引きこもりというところでは、
周囲の方のまなざしを変えていくために、
言葉にして伝える人の存在が大切なのだと改めて感じました。

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